何も感じなかった父親のことが「誇らしい」と思えるようになったお話
父との関係について語るとき
いつも出てくるのは、
惣士郎さんからのフィードバックです。
母親との関係についての投稿で
書きましたが、
私は両親との関係に取り組む、
という発想自体が生まれたのが
惣士郎さんのコミュニティ
(ゆかい村)
に出会ってからでした。
あるとき、
仲間たちと惣士郎さんと話す機会があり、
両親との関係についての話になりました。
当時、
私は23歳くらいだったと思います。
こんなことを話していました。
「お母さんはホント心配してきて
私もついついイラっとしてキレちゃうんですよね。
だからお母さんとは色々ありますね。
お父さんとは特に問題ないんですけど。」
これに対する惣士郎さんのフィードバックは
てっきりお母さんとの関係に対するものかと思いきや、
「お父さんと何もないことが問題だよ。」
というまさかの内容。
正直、「へ?」
と思ったのですが、
言われてみて
初めて父を感じてみたところ、
自分の中で父との繋がりを感じる感覚が
全然通っていないということに
気がついたのです。
家族構成の中に
父という存在はいるけれど
全く何も感じていない。
(かといって仲が悪いとかではない)
という現在地に気がつきました。
そこから
私の父親との関係性についての
取組みが始まったのです。
こういった親との関係に取り組むときに
ついつい陥ってしまうことがあります。
それは、
両親との関係についてのワークなどに
取組み、
親と話そう、などアイデアが湧いた人は
そのまま実行しようとしてしまうこと。
これの何が問題かというと、
自分はそう思ったけれど、必ずしも親は
そう思っているわけではないということ。
また、
そのテーマを話せる程の関係性を育めていない
のに、いきなり自分都合でテーマを持ち込む
ことにもなったりします。
実はこれでは循環しません。
なぜならば、そういうワークの目的の1つは
自分自身が親のような視点に立てること。
子どもの頃の思い込み・囚われから脱して、
1人の大人として両親を理解できること。
そういうステージに自らを引き上げること。
それが本当の成人になるということ
ではないでしょうか。
だからこそ、
上記の自己変容がないまま取り組んだとしても
それは、親子関係の延長線上になってしまうからです。
そして
タチが悪いのは、
自分が子どもの立場のままアプローチしていったから
そうなっているのに、
親が分かってくれないという逆ギレをするパターン。
これは
作り出されている親子関係のドラマに
よりハマってしまうことになります。
当時の私は、
まさに子どもの立場のまま
父親と話そうとしていました。
まぁ、逆ギレなどはありませんでしたが
いきなり連絡して、話そうと言って
2人でカフェにいって
全く話しが出てこなくて、
コーヒーをただただ飲んで
空っぽになったから帰ってきた。
これが私の最初のアクションです。
今思えば、
時期尚早過ぎました。
実際、
ワークをして両親と直接話す必要があるかというと
特にありません。
もちろんしたかったらしてもいいと思うのですが、
大切なことは自分の中の捉え方が変わることなので。
当時の私は
大分猪突猛進だったので
テーマだ!と思ったら考え無しに
突っ込んでいた、という訳です。
それから、
特に人生のメインテーマに父との関係を置く
というわけではなく、
生きている中で
ふっと出てきたらその都度向き合うスタイルで
いったところ、
先行している母との関係が
豊かになっていくことに呼応したのか、
父との関係も
全く感じないところから、
だんだん実感が芽生えてきました。
この実感について
大きな変化が生まれたのは
2015年。
2017年には約半年間滞在していた
フィリピンのカミギン島という島に
初めていった年でした。
そこで私は
惣士郎さんと共に
龍学プログラムという
カミギン島で3ヶ月間滞在しながら
学習・実践していくというプログラムをやっているのですが、
龍学の参加者が到着する前の日に
惣士郎さんと仲間たちと話していたときに
たまたま父の近況の話になりました。
その話しに対して、
惣士郎さんがこういったのです。
「いっしーのお父さんは、
グローバルリーダーだね。」
え?
グローバルリーダーという響きは
私にとってすごく感情が動くワードで
そのワードと
父が並んだ事に驚きましたが、
その直後に
「確かに。」
と感じるものがありました。
父は大学の先生をしている傍ら、
ライフワークとしてルワンダの研究をし、
実践としてJICAの事業を受託したばかりだったのです。
ルワンダに興味を持ち、単身で行き
そこで繋がった現地のNPOをパートナーを組み、
形にしていきました。
ちょうど
2017年の3月をもって
JICAの支援は終了したのですが
今も立ち上げた事業は規模を縮小しながらも続いています。
なるほど。
父はすでに自分の憧れの1つのような
生き方をしていたのか。
この感覚を持てたことは
とても大きいことだったと思います。
父を見る目が根本から
変わった気がしましたから。
その後、
父がルワンダにいくために
東京を経由するとき
連絡が来て
一緒に東京駅でご飯を食べたことがありました。
すでに荷物を送っていたらしく
軽装で現れた父とトンカツを食べて、
その後、カフェで話しをして。
このときに初めて
ルワンダのことやどんなことを
感じているのかなど、
自分にとっては
これぞ父との会話だ
と思える時間を過ごすことができました。
その後、
改札まで送ったのですが
ひょうひょうと
構内に消えていった背中を見て
「誇らしい」
そんな気持ちを
感じていました。
父にそんな気持ちを感じたのは
初めてのことでした。
その後、
偶然父のブログを発見し、
彼がどんな経緯を経て
ルワンダに興味を持ったのか、
どんなことに取り組んで
どんな想いで
JICAのプロジェクトを進めてきたのか。
など、
およそ本人から聴き出すには
どれだけの時間が必要かと思えるほどの
(本人が話したがらないというのが大きな理由)
内容が出てきて、
父のことを少しでも知りたいと
思っていた私にとっては
とても有り難いブログでした。
そのブログを読んでいるときに
自分に似たところ
(正確に言えば父に似たところ)
を見つけることができると、
何か嬉しい気持ちになったり、
やはり子どもは
どこかで父と似たところを見つけたい
と思っているものなのかな?
と思ったりもしました。
また、
このときだと思います。
繋がれたらと思っていた父と
繋がれる場所は家庭の中ではなく、
社会の中なのかもしれないと
感じたのは。
正確に言えば、
リアルタイムな父の姿ではありませんが、
ブログの中に社会の中で父の活動の軌跡が刻まれていました。
私はそこで
家の中では知らない、出会えない
父の姿に出会うことができたわけです。
昨年末、
父からカレンダーが届きました。
それは、
ルワンダの活動の寄附を得るために
作った現地の写真を集めてつくったカレンダーでした。
それを
見たとき、
もう嬉しくて嬉しくて。
父のものすごい努力の結晶だと
感じられて
それをプレゼントしてもらえて
すごく嬉しくなったことを覚えています。
そういった
これまでの父との関わり方を経ての
今回のワーク。
そこで気づいたことはいくつかあります。
それは、
そもそも父と過ごし、会話する絶対量が少なかったということ。
私は小学校を3つ通っており、
2番目の小学校にいった後、
イジメなどが原因で
仕事があった父だけを残し
母が住み慣れた宮城県仙台市に
引っ越しました。
小学校5年生にあがるときのことです。
小学校高学年、中学校と
思春期の多感な時期を
私は実質母子家庭のような環境の中で
育ちました。
といっても、
父は仕事の休みの週末など
往復約10時間かけてわずか1泊2日のために
会いに来てくれていました。
これについては
記憶があります。
小学校高学年だった私は、
父が帰るとき
寂しくて泣くのです。
帰らないで。
と。
高学年になっても
こんな状態だった私は
とても泣き虫で甘えん坊だったのだなと
思います。
これは逆の立場だったとしたら
可愛い子どもが泣いている姿に後ろ髪引かれながら
また5時間かけて
帰っていく間、
父が感じていたであろうことを
想像すると胸が痛くなります。
1人でご飯を食べていて
虚しかった、
と後にこのときのことについて話してくれていました。
思えば、
父としても
子どもがいじめられて
学校に対して言っても
何も状況が動かない。
とはいえ仕事は忙しい。
きっと、
どうしたらいいんだろう
と思っていたのだと思います。
学校に何度も行っていたと聴きました。
実はあまり思い出せるほどに
父との思い出はありません。
どんなことを話したのかも
覚えていないのです。
今でもすぐに思い出せるとしたら
父からこうしなさい、ああしなさいと言われたことは
一切なく、それは父自身が「自らが思ってしない限り、
何も身につかない」というポリシーを持っていたからです。
そんなことを私に言っていたことを
覚えています。
(それに対して、もっと構って欲しい、という
不満を持っていた私もいましたが)
どちらかというと
休みの日に家でゴロゴロしている姿を
見ていたことが多かったように思います。
一度、長野にいたときに
大学に連れていってくれたこと。
仕事部屋に連れていってくれたことを
覚えています。
おそらく父のゼミ生らしき
お兄さんお姉さんたちに声をかけられた記憶もあります。
とはいえ、
父との思い出の絶対量が少ない。
だからこそ、どちらかというと母の言う父親像に
影響を受けてきたように思います。
母が言う父親像は決して
真実ではなく、
母の感情によって色づけられたものだったと
今では分かります。
ストレスが溜まるとパチンコにいっていた父
タバコを吸っていた父
でも当時のことなど思えば、
「そりゃ、ストレス溜まるよなぁ」
ということが今なら分かります。
また、
ワークを通じて今回
「はっ」と気がつくことができたことがあります。
それは、
私が子どもで父だけが別なところに
住んでいた頃に、
往復10時間かけてでも会いに来たくなるような
大事な存在、可愛い存在が父にとっての自分だったんだなぁと初めて
イメージすることができたこと。
これは間接的ではあるけれど、父が私を愛してくれていたっていうことが
すごくよく分かることでした。
そういう意味で
私たちは愛されていること、大事にされていることを
確かめたい性質があるのかも、と思っています。
また、
父が私にしてくれたことをリストアップしていきました。
そのことから気づいたこと。
それは、
私が求めたことで父が応えなかったことがなかった、
ということでした。
言い換えれば、
何でも叶えてくれたということです。
このことには気づきませんでした。
私が求めるほどに
何でも惜しみなく与えてくれた父の愛は
有り難い。
そう感じることができました。
また、
先日別な方と父親について語る機会がありました。
その方は、
話しを通じて「父を越えたいと思っていることに気づいた」
ということを言っていました。
この話を聴いて私は
羨ましいと思いました。
正直、今の私は父を羨ましいと
感じるには至っていません。
そういう意味で
約10年前に始まった父との関係プロジェクトには
まだまだ先があると感じています。
そして、これは目的ではありませんが
できることなら、
父が生きているうちに
越えたい、越えたという感覚を
持てたらいいなぁとゆるやかに感じています。
また、
取組みがアップデートされたら
共有していきますね。
長文読んでいただき
ありがとうございました!